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名人戦 宿命の対決 [将棋]

いつものように囲碁将棋ジャーナルを見終わったら、引き続き興味深い番組が始まった。

「名人戦 宿命の対決~森内俊之VS羽生善治」

この番組、実は1ヶ月ぐらい前?に見てるんですけどね。
だけど2度見られて良かった。幸運でした!

将棋に限らず、勝負師全般に言えることかもしれません。
何の保証も無い、実力だけが唯一の拠りどころという毎日の中で、いかにして相手を打ち負かすか・・・
これはぼくが在籍する平々凡々とした世界とは、景色も空気も、時の流れも全然違うと思います。
無論、加藤・中原といったベテラン連中のほうが、より極めたものがあるのかもしれません。
しかし森内、羽生ら今をときめくスーパースターの言動は、年齢には無関係な興味があります。

実は将棋は、ぼくの人生を形成している重要なパーツのひとつです。
プロフィールのキーワードに登録していないのは、「遊び」の気分がここには無いから。
映画や音楽といった芸術性を追求する分野とは、ちょいとばかし世界観が異なります。

「平常心を持とうと考えること自体、すでに平常心ではない」

37歳の羽生はそう言いました。
その辺のハナ垂れ小僧が言えば何でもないセリフでも、彼が言えば違う響きになります。
将棋にとって理論は重要な要素ではあるけれども、いくつかあるセグメントのひとつでしかない。
自分の力の最大化を図るにはどうすれば良いのか?
そして同時に言えることは、相手の力の最小化を図るにはどうすれば良いのか?

「若い頃は理論的に正しいことがすべてでした。今は自分の感性を大事にしています。
 なぜなら、それが自分の実力を発揮させる最も重要なことだからです」

同じく37歳の森内はこう言いました。
若い頃から未来を嘱望された才能は、羽生から見れば明らかに遅咲きの部類に入る。
彼がようやく才能の鋭さ発露させ始めたのは、理論が勝つためのひとつの材料に過ぎないことを
完全に自らのものにしたからではないだろうか?

「24時間365日、自分はプロだと思い続けることがプロの要件です」

まさか羽生がプロじゃないなんて言うヤツがいるとは思えないが、羽生にとってプロとは、自らの
意識の問題であると言った。一昔前の勝負師には必須とされた、「呑む・打つ・買う」とは対極に
あるような羽生でさえ、プロは技術とは言わない。無論、技術はそれ以前の話だとは思うが。

「常に新しいものを求めること、常に自分を高めようとする気持ち」

示し合わせたわけでもないだろうに、森内も羽生とまったく同じようなことを言った。
やはりスーパースター級は言うことが違うなあ。だからこそこの地位に居られるのでしょうね。
そう言えば、森内が初めて名人になった時だったかな、彼はこういう意味のことを言いました。

「私のような才能の無い人間でも、努力すれば名人になれることを示せたと思います」

謙虚が服を着ているが如き森内が言うからこそ、そしてそれが竜王戦のように瞬発力だけでは
挑戦することさえもできない名人という地位であるからこそ、その言葉には大きな重みがあります。
2人とも才能に裏打ちされた実力者。その才能は勝負の世界だからこそ認められるものだけど、
同時にそれは勝負の世界でしか発揮できないと思うと、少し悲しくなってしまいます。
それを言っても仕方の無いことなんだけど。

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