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思い出の公衆電話 [昔話]

以前の記事で、金曜の夜はどこか仕事を引きずってる所があると書きました。
だけど今は、ちょっと訂正したい気分。
最近は仕事の負荷が大きくなり過ぎてて、土曜の夜は既に仕事がチラ付き始めてる。
我ながら何だかなあ~と思うけれど、事実だから致し方ありません。
よって、憂い無く何でも好きなことが出来そうなのは、金曜の夜にシフトってことで。^^;

IMGP0190r.JPG
(北近畿タンゴ鉄道:宮福線沿線風景、2011年8月20日撮影)

最近、単身赴任された“r”さん。
そして、ご主人の海外赴任に伴って、つい先日渡米された“k”さん。
特にkさんの先日の記事は、情景が目に浮かび過ぎてビンビン来ました。
カルチャーショックはあるし、色々なことにも不馴れだから意のままにならず落ち着かない。
あるいはまた、そんな中で多くのことをイチから始めなければならない面倒さ。
状況の詳細は違えど、ふと、昔の自分を思い出してしまいました。

プロフィールにも書いたとおりです。
15年半前に、ぼくは1回目の単身赴任に見舞われました。
学生時代は家から通っていたし、就職しても相変わらず家から通勤してました。
自宅からの通学・通勤に拘ったわけじゃありませんが、偶然そうだったんですね。
だから「ただいま~」と帰宅して、「お帰り~」の返事がないのはまったくの未体験領域。
それまでが恵まれていたんだと言えば、確かにそれだけの話かもしれませんが。

当時は、大ブレークしてニュースにもなったwindows95がリリースされた頃。
i486(DX4)からPentiumマシンへの移行が始まった頃、自宅のPCの増設メモリは1枚が
大体8MB(今を2GBとすれば1/250)という頃です。
windows95のお陰で、パソコン通信からインターネットへの拡大が進み始めたものの、
PCにはLANポートはおろか、今では誰も使わないようなモデムさえも装備されておらず、
外付けの56Kbpsモデムにピーピーガーガー言わせながら、23時からのテレホタイムに
10~20Kbps(今を10Mbpsとすれば1/500~1/1000)ぐらいでダイヤルアップ接続
してたような原始時代です。
圧縮し忘れた添付ファイル付きのメール受信に、1時間以上掛かったりしてました。
あ、脱線してますね。話を戻しましょう。(笑)


風呂は自分で掃除しなければ、誰もしてくれる人はいない。
メシは自分で作るか買ってこない限り、忽然と出て来るなんて金輪際あり得ない。
もし目覚ましを掛け忘れたら、いつ起きるかは成り行き任せだ。
宅配便を受け取ろうにも、配達可能時刻に帰宅できずに受け取れない。
うず高く積まれて行く食器や洗濯物、これらは一体、どうすれば良いのだ?
何事も、未経験ゾーンというのは、人を不安と焦燥に陥れます。
慣れてしまえば何てことないことでも、瞬間的には途方に暮れさせるに十分です。

引越の日の夜だったか、次の夜だったか。
家に残して来た、その頃小5の息子と小2の娘に電話しました。
段取りが悪くて電話工事が済んでなかったし、携帯電話も持ってなくて。
もちろんネットは自宅にしかありませんから、当然のように外の公衆電話からです。
その頃は今と違って街中に公衆電話があったけど、それでもマンションからは歩いて
4,5分は掛かったかなあ。

まず、手持ちの十円玉を全部かき集めました。
次に、パチンコ屋さんで2,000円を百円玉に両替しました。
あの頃は電話料金が高かったのかなあ、2,000円分の硬貨はあっという間でした。
あと500円でも千円でも、どうして両替しとかなかったのか!
などと悔んでみたところで、結局いくらあっても一緒だったと思いますけどね。

しているのは他愛のない話、どうでもいい話ばかりです。
だけど他愛ない話であればあるほど、どうでもいい話であればあるほど、
何だか随分遠い所へ来てしまったんだなあ、という後ろ向きの気持ちになりました。
子供たちのためにも頑張らなきゃいけないとは思うものの、おれは本当に頑張れる
のだろうか・・・という思いが複雑に交錯しました。
ま、当然ながら、お父さんは頑張ったわけですが。(笑)

思い出の公衆電話というには、あまりにショボ過ぎる話ですよね。
だけど、今はもう無くなってしまったあの日の電話ボックス周りの夜の風景や、
暗がりの中の曇り空、まだ4月初旬の肌寒さ・・・
それらが渾然一体となって、いまだにかなり鮮明に残ってる気がします。
もう15年も前のことなのに。
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