2012 今年の採点 [採点]
今年の採点は極めて難しい。
何だかんだ言っても、去年の採点は簡単だった。
減点法は嫌いだ。加点法も好きではない。
さて、どうするか。去年は88点だった。それに比べてどうか?
そういう基準で考えてみたいと思う。

(富士山:2012年3月20日撮影)
■2012年の採点:89点
そこそこ頑張ったと去年も自分を褒めましたが、今年は去年よりも更に上。
だから1点増しです。その結果、89点ということになりました。
嬉しいです。率直に言って非常に嬉しく思います。
2012年。
辛いこともありましたが、ぼくにとっては近年にないほどの意味のある年でした。
いよいよ来年(正確には来年度)は、サラリーマン生活最後の年となります。
最後まで、しっかりと頑張りたいと思います。
ところで、先月ぐらいから考えてました。
皆さんからいただいたコメントで、今年一番心に残っているものをご披露しよう、と。
そもそもぼくのページは、本文記事はきっかけに過ぎない場合がほとんどです。
アップした時は何ということもなかった記事が、その後の皆さんのコメントによって
ちゃんとした一人前の記事に昇華する・・・
そういうパターンがいかに多いかは、過去ページを見ていただければ一目瞭然です。
前置きが長くなりました。
そんな未熟な記事ばかりのぼくのページの中でも、一際異彩を放っているのが
このページでした。
58歳の挑戦とは何か?
本文はごくごく短い上に、大部分がシティバンクの広告用コピーの引用です。
ほとんど記事の体を為していないと言っていいこのページ、その代わりと言っては
なんですが、皆さんが寄せてくれたコメントはまさに秀逸なものばかりです。
その中のひとつ、16番目のコメントの中にあるこのフレーズには感動しました。
「もう歳だからできなくて当たり前と思わない自分でずっといたい♪」
ぼくの年代で、こういう意識を持っていない人は、ほとんどいないと思います。
多くの人々の心の中にありながら、その姿が何だかモヤモヤとしているからか、
ここまで簡潔で平易に言い表しているのを、ぼくは初めて見た気がしました。
語尾の♪にも、思わずニヤリとしてしまいます。
めい先輩、ありがとうございます!
めい先輩のこのコメントの後押しのお陰で、意識的な整理は進みました。
その結果、去年よりも1点増しの評点に繋がったのだと思います。
本当に感謝しています。
さて、ソネブロの皆さま。
まるで10年以上前の骨董システムのようなレスポンスの so-netブログでも、
こんなにも多くの人々が集っているのは、ひとえに利用者の人柄でしょう。
イライラすることは多いですが、我慢しましょうね、皆さん!(笑)
2012年は本当にありがとうございました。
そして来たるべき2013年も、引き続きよろしくお願いします!
では皆さん、良いお年を♪♪
何だかんだ言っても、去年の採点は簡単だった。
減点法は嫌いだ。加点法も好きではない。
さて、どうするか。去年は88点だった。それに比べてどうか?
そういう基準で考えてみたいと思う。
(富士山:2012年3月20日撮影)
■2012年の採点:89点
そこそこ頑張ったと去年も自分を褒めましたが、今年は去年よりも更に上。
だから1点増しです。その結果、89点ということになりました。
嬉しいです。率直に言って非常に嬉しく思います。
2012年。
辛いこともありましたが、ぼくにとっては近年にないほどの意味のある年でした。
いよいよ来年(正確には来年度)は、サラリーマン生活最後の年となります。
最後まで、しっかりと頑張りたいと思います。
ところで、先月ぐらいから考えてました。
皆さんからいただいたコメントで、今年一番心に残っているものをご披露しよう、と。
そもそもぼくのページは、本文記事はきっかけに過ぎない場合がほとんどです。
アップした時は何ということもなかった記事が、その後の皆さんのコメントによって
ちゃんとした一人前の記事に昇華する・・・
そういうパターンがいかに多いかは、過去ページを見ていただければ一目瞭然です。
前置きが長くなりました。
そんな未熟な記事ばかりのぼくのページの中でも、一際異彩を放っているのが
このページでした。
58歳の挑戦とは何か?
本文はごくごく短い上に、大部分がシティバンクの広告用コピーの引用です。
ほとんど記事の体を為していないと言っていいこのページ、その代わりと言っては
なんですが、皆さんが寄せてくれたコメントはまさに秀逸なものばかりです。
その中のひとつ、16番目のコメントの中にあるこのフレーズには感動しました。
「もう歳だからできなくて当たり前と思わない自分でずっといたい♪」
ぼくの年代で、こういう意識を持っていない人は、ほとんどいないと思います。
多くの人々の心の中にありながら、その姿が何だかモヤモヤとしているからか、
ここまで簡潔で平易に言い表しているのを、ぼくは初めて見た気がしました。
語尾の♪にも、思わずニヤリとしてしまいます。
めい先輩、ありがとうございます!
めい先輩のこのコメントの後押しのお陰で、意識的な整理は進みました。
その結果、去年よりも1点増しの評点に繋がったのだと思います。
本当に感謝しています。
さて、ソネブロの皆さま。
まるで10年以上前の骨董システムのようなレスポンスの so-netブログでも、
こんなにも多くの人々が集っているのは、ひとえに利用者の人柄でしょう。
イライラすることは多いですが、我慢しましょうね、皆さん!(笑)
2012年は本当にありがとうございました。
そして来たるべき2013年も、引き続きよろしくお願いします!
では皆さん、良いお年を♪♪
米長邦雄さん逝く [将棋]
日本将棋連盟会長の米長邦雄さんが、今日18日朝、天国へ召されたそうです。
69歳の生涯はあまりにも短く、惜しい。
大ファンのぼくは悔しくて、悲しくて、もうほとんど言葉がありません。
永世棋聖、初の50代名人、コンピュータとの平手対戦に敗れた元名人・・・など、
米長さんを紹介するフレーズは、実に数多い。
だけど、どれをとっても、ぼくにはまったく事足りていない気がします。
「兄たちは頭が悪かったので、仕方なく東大に行ったんですね。
でも、ぼくは頭が良かったから将棋指しになりました。(笑)」
有名なこのセリフ、決して奢らない米長さんだったからこそ許されました。
人間味あふれる、ジョークが好きな、洒落たハイセンスなおじさん・・・
それがぼくの大好きな米長邦雄でした。
米長さんと言えば、恐らく現代将棋で最も有名な手である5二銀の解説!
そうです、あまりにも有名な'89年のNHK杯、加藤(一)vs羽生戦。
こんな鬼手が飛び出した名局の解説が米長さんだったのも、何かの因縁ですよね。
やっぱり人徳じゃないかなァ。
米長さんの棋風は、とにかく前へ前へ。
少々無理筋でも、勝負所と見るやグイグイ突進する気っぷの良さ。
そうかと思えば、米長玉(9八玉)に代表される無類の粘り腰も兼ね備える。
ひとことで言えば、ファンサービス精神にあふれる棋士だったと思います。
「いずれ、あの男がやって来る」
後の七冠男・羽生善治に早くから注目し、「名人の器」と言っていましたよね。
ご自分の子供のような年齢の若手棋士に「教えを請う」と言って憚らないスタンスは
それまでの将棋界にはなかったものだったのではないでしょうか?
ああ、しかし。
今となっては、何を言っても空しい気がします。
最後に、絶筆となった米長さんのHPの記事を記念に貼り付けさせていただいて、
大好きな大好きな米長さんとお別れしたいと思います。
-------------<『米長邦雄の家』まじめな私 より転載>-------------
■最後の時(2)(2012.12.2)
最後の時。先週こういう出だしだったもんで、心配してくれた知人、友人が
多かったです。その中でも忠告してくれる人がいて、告別式のあり方、不謹慎
なお墓などは止めた方がいいという、超真面目な人が居りました。
以後氣をつけます。
人生は必ずいつか終わるもの。どのような形で投了するのか、あるいは投了
させられるのか。最近はそんなことを考えるのが多いのも又事実です。痛みも
なく苦しみもなく、寿命を全うできれば、これが一番幸せではないかと思い至る
ようになりました。
悟りを開いた高僧になった訳ではありませんが、「人生すべて感謝である」
これが今の心境です。私はガンを患っていますが、これもことの成りゆきで、
人生はなるようにしかならないのだと達観しております。
しかし、人生の達人にお会いして、それではまだだめだと教えられました。
この世には無駄なことは何もなく、ガンになったことすら感謝すべきであると
諭され、はっと氣づかされました。
私自身の人生を振り返ってみると、60才までの勝負師人生、その後の経営
者としての人生に分けられるような氣がします。60才までのことは大方の人が
知っていることでしょうから、60過ぎからの会長職としての仕事の成果、内容、
等々を書き綴ってゆきたいと思います。
次いで、俗人の生前指示についても書いておきたい。相続、告別式の手配
等です。全てが感謝といっても、やっぱり俗人ゆえに葬式に来てもらいたくない
という人間がいます。これをインターネットで公表していいものかどうか
(ま、そんなことはしませんけどね)。この感情も含めて、感謝なのでしょうか。
69歳の生涯はあまりにも短く、惜しい。
大ファンのぼくは悔しくて、悲しくて、もうほとんど言葉がありません。
永世棋聖、初の50代名人、コンピュータとの平手対戦に敗れた元名人・・・など、
米長さんを紹介するフレーズは、実に数多い。
だけど、どれをとっても、ぼくにはまったく事足りていない気がします。
「兄たちは頭が悪かったので、仕方なく東大に行ったんですね。
でも、ぼくは頭が良かったから将棋指しになりました。(笑)」
有名なこのセリフ、決して奢らない米長さんだったからこそ許されました。
人間味あふれる、ジョークが好きな、洒落たハイセンスなおじさん・・・
それがぼくの大好きな米長邦雄でした。
米長さんと言えば、恐らく現代将棋で最も有名な手である5二銀の解説!
そうです、あまりにも有名な'89年のNHK杯、加藤(一)vs羽生戦。
こんな鬼手が飛び出した名局の解説が米長さんだったのも、何かの因縁ですよね。
やっぱり人徳じゃないかなァ。
米長さんの棋風は、とにかく前へ前へ。
少々無理筋でも、勝負所と見るやグイグイ突進する気っぷの良さ。
そうかと思えば、米長玉(9八玉)に代表される無類の粘り腰も兼ね備える。
ひとことで言えば、ファンサービス精神にあふれる棋士だったと思います。
「いずれ、あの男がやって来る」
後の七冠男・羽生善治に早くから注目し、「名人の器」と言っていましたよね。
ご自分の子供のような年齢の若手棋士に「教えを請う」と言って憚らないスタンスは
それまでの将棋界にはなかったものだったのではないでしょうか?
ああ、しかし。
今となっては、何を言っても空しい気がします。
最後に、絶筆となった米長さんのHPの記事を記念に貼り付けさせていただいて、
大好きな大好きな米長さんとお別れしたいと思います。
-------------<『米長邦雄の家』まじめな私 より転載>-------------
■最後の時(2)(2012.12.2)
最後の時。先週こういう出だしだったもんで、心配してくれた知人、友人が
多かったです。その中でも忠告してくれる人がいて、告別式のあり方、不謹慎
なお墓などは止めた方がいいという、超真面目な人が居りました。
以後氣をつけます。
人生は必ずいつか終わるもの。どのような形で投了するのか、あるいは投了
させられるのか。最近はそんなことを考えるのが多いのも又事実です。痛みも
なく苦しみもなく、寿命を全うできれば、これが一番幸せではないかと思い至る
ようになりました。
悟りを開いた高僧になった訳ではありませんが、「人生すべて感謝である」
これが今の心境です。私はガンを患っていますが、これもことの成りゆきで、
人生はなるようにしかならないのだと達観しております。
しかし、人生の達人にお会いして、それではまだだめだと教えられました。
この世には無駄なことは何もなく、ガンになったことすら感謝すべきであると
諭され、はっと氣づかされました。
私自身の人生を振り返ってみると、60才までの勝負師人生、その後の経営
者としての人生に分けられるような氣がします。60才までのことは大方の人が
知っていることでしょうから、60過ぎからの会長職としての仕事の成果、内容、
等々を書き綴ってゆきたいと思います。
次いで、俗人の生前指示についても書いておきたい。相続、告別式の手配
等です。全てが感謝といっても、やっぱり俗人ゆえに葬式に来てもらいたくない
という人間がいます。これをインターネットで公表していいものかどうか
(ま、そんなことはしませんけどね)。この感情も含めて、感謝なのでしょうか。
おふくろとハンバーグ [昔話]
ちびっ子の好きな食べ物ベスト3に必ず入るらしい、ハンバーグ。
ぼくが初めて食べたのは、いつ頃のことなんだろう?
食べ物の記憶って、他の記憶に比べて、何だかすごくボンヤリとしていませんか?
ぼくだけかなあ? そんなことないと思うけど。
うっすらとした記憶を辿ると、恐らく中学生の終わり頃じゃないかという気がします。
しばらくの間は、おふくろが作るハンバーグを食べていたのを憶えています。
高校生の時は弁当にも入ってたから、嫌いじゃなかったんでしょうね。
しかし大学生になり、状況は一変します。

(写真は唐津市のステーキハウス蜂のハンバーグステーキ、ジャポネソース)
昭和47年('72年)、大学生になったぼくはアルバイトに燃えておりました。
色々なバイトに精を出しましたが、その中でも長く続いた(条件の良かった)のが、
西鉄グランドホテルの中にあった洋食屋さんの皿洗いでした。
当時から既に食洗機が導入されており、仕事はラクチンそのものでした。
夕方からのシフトで、0時ごろまでの拘束。時給はいくらだったかなあ?(失念)
ここでは食事の提供がありました。いわゆる、「まかないご飯」というヤツですね。
そこで出てきたハンバーグ、ひとくち食べてぶったまげた。
おふくろが作ったヤツと全然違う、違うにも程がある!!
恐らく、外食でハンバーグなど食べたことがなかったのでしょうね。
洋食屋さんのまかないで出てきたハンバーグが、一体どんな味だったのか?
今はもう忘却の彼方ですが、少なくとも、おふくろのヤツとは天と地ほど違ってた。
それは疑いようがありませんでした。帰宅後、さっそくおふくろに報告。
(詳細は忘れました。多分、こんなやりとりだったと思う)
ぼく:お母さん、うちのハンバーグ、おかしくない?
おふくろ:どしたの?
ぼ:バイト先で食べたら、いつものと全然感じが違ってた。
お:どういう風に?
ぼ:どういう風にって、すご~く旨かった。うちのおかしいよ!
お:・・・。
ぼ:うちのって、ハンバーグと言うよりも、肉団子を焼いたヤツって感じ。
お:・・・。
ぼ:お母さん、うちのはハンバーグじゃないよ。あれは肉団子・・・
お:そんなこと言うんなら、もう食べんでいいっ!(怒)
おふくろ、珍しく怒りました。
「食べんでいいっ!」という言葉を聞いて、ハッと我に返りましたが、時すでに遅し。
その後、ぼくがいる時の食卓には、二度とハンバーグが上ることはありませんでした。
今にして思えば、おふくろも強情だったなあと思います。
「お兄ちゃんはね、好きんしゃれんと」(=お好きじゃないのよ)
後から聞いたのですが、おふくろは妹にこう言っていたらしい。
「好きんしゃれん」(=お好きじゃない)というのは、ややイヤミが込められた言葉です。
ぼくがいない時には食卓に上っていたようだから、おふくろは食べたかったんでしょうね、
・・・あの焼き肉団子!(笑)
先日、カミさんにこの話をしたら、仏壇から怒って出てくるよ・・・と言ってました。
そんなことで出てきてくれるんなら、何度でも言おうかなあ。
おふくろ、肉団子を焼いたハンバーグ、もう1回食わしてくれー!^^;
ぼくが初めて食べたのは、いつ頃のことなんだろう?
食べ物の記憶って、他の記憶に比べて、何だかすごくボンヤリとしていませんか?
ぼくだけかなあ? そんなことないと思うけど。
うっすらとした記憶を辿ると、恐らく中学生の終わり頃じゃないかという気がします。
しばらくの間は、おふくろが作るハンバーグを食べていたのを憶えています。
高校生の時は弁当にも入ってたから、嫌いじゃなかったんでしょうね。
しかし大学生になり、状況は一変します。
(写真は唐津市のステーキハウス蜂のハンバーグステーキ、ジャポネソース)
昭和47年('72年)、大学生になったぼくはアルバイトに燃えておりました。
色々なバイトに精を出しましたが、その中でも長く続いた(条件の良かった)のが、
西鉄グランドホテルの中にあった洋食屋さんの皿洗いでした。
当時から既に食洗機が導入されており、仕事はラクチンそのものでした。
夕方からのシフトで、0時ごろまでの拘束。時給はいくらだったかなあ?(失念)
ここでは食事の提供がありました。いわゆる、「まかないご飯」というヤツですね。
そこで出てきたハンバーグ、ひとくち食べてぶったまげた。
おふくろが作ったヤツと全然違う、違うにも程がある!!
恐らく、外食でハンバーグなど食べたことがなかったのでしょうね。
洋食屋さんのまかないで出てきたハンバーグが、一体どんな味だったのか?
今はもう忘却の彼方ですが、少なくとも、おふくろのヤツとは天と地ほど違ってた。
それは疑いようがありませんでした。帰宅後、さっそくおふくろに報告。
(詳細は忘れました。多分、こんなやりとりだったと思う)
ぼく:お母さん、うちのハンバーグ、おかしくない?
おふくろ:どしたの?
ぼ:バイト先で食べたら、いつものと全然感じが違ってた。
お:どういう風に?
ぼ:どういう風にって、すご~く旨かった。うちのおかしいよ!
お:・・・。
ぼ:うちのって、ハンバーグと言うよりも、肉団子を焼いたヤツって感じ。
お:・・・。
ぼ:お母さん、うちのはハンバーグじゃないよ。あれは肉団子・・・
お:そんなこと言うんなら、もう食べんでいいっ!(怒)
おふくろ、珍しく怒りました。
「食べんでいいっ!」という言葉を聞いて、ハッと我に返りましたが、時すでに遅し。
その後、ぼくがいる時の食卓には、二度とハンバーグが上ることはありませんでした。
今にして思えば、おふくろも強情だったなあと思います。
「お兄ちゃんはね、好きんしゃれんと」(=お好きじゃないのよ)
後から聞いたのですが、おふくろは妹にこう言っていたらしい。
「好きんしゃれん」(=お好きじゃない)というのは、ややイヤミが込められた言葉です。
ぼくがいない時には食卓に上っていたようだから、おふくろは食べたかったんでしょうね、
・・・あの焼き肉団子!(笑)
先日、カミさんにこの話をしたら、仏壇から怒って出てくるよ・・・と言ってました。
そんなことで出てきてくれるんなら、何度でも言おうかなあ。
おふくろ、肉団子を焼いたハンバーグ、もう1回食わしてくれー!^^;